Yahoo 掲示板の仲間 seshime さんにお願いして,富士山滑走のお話を書いていただきました。
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 ヤフー掲示板のseshimeです。 富士山滑走記の原稿ができましたので送らせていただきます。

富士山滑走記


                                              笠原 寛基   

 高速を走りながら、私は富士の姿を探していた。大月の手前で見えたはずの山頂は、近づくにつれ雲の中に隠れてしまっていた。天気予報では晴れのはずだったのに…。空と同じ薄曇りの気持ちのままスバルラインに入り五合目を目指した。四合目を過ぎた辺りから雲は途切れ始め、同じように心の雲も晴れていった。目の前には我々を歓迎するかのように白い富士の姿がそびえ、眼下には幻想的な雲海が広がり、遠くに見える南アルプスが千載一遇のチャンスを告げていた。そうなのだ。この富士を滑るために私はここに来たのだ。
 
 誘いがあったのは4日前のことだった。私の伯父は仲人を終えた結婚式場から電話をかけてきた。
 「富士山が呼んでいるんだ。」 伯父はそう言った。
 「行きましょう。」 私は即答した。
 伯父は県連の理事をしており、私のスキーの先生でもある。自然の雪渓を滑る楽しさを教えてくれたのも伯父である。ある意味とても尊敬している。
 伯父は何度か富士を滑っている。前からその話を聞いていた私は、いつか連れていってくれと懇願していた。ついにそのときがやってきたのだ。
 
 五合目に着くと我々はいそいそと準備をはじめた。ミレーのザックに食料とブーツを詰め込み、冷えに備えてフリースを着込んだ。すぐにこのフリースは単なる腰巻に成り下がる羽目になるのだが…。何枚か写真を撮り、いよいよ出発する。とりあえず1時間ほどかけて吉田大沢に向かうことにする。吉田口登山道の脇に広がる巨大な雪渓である。観光客向けの馬たちに見送られながら、我々は歩き出した。すれ違う人々がスキーを担いでいる我々を不思議そうに見ている。少し誇らしげな気分になった。
 しばらく歩くと吉田口登山道の入り口に着いた。ここから道の勾配がきつくなり始める。ふと気づくと我々の後ろを一定の距離を保ちながら誰か付いて来ている。どうやら我々を監視しているらしい。それもそのはず、実は先日八合目付近で、スノーボーダーの滑落事故があったばかりだった。おそらくスキーを担いで登り始めた我々を見て誰かが指令を出したのだろう。彼はしばらく付いて来ていたが吉田大沢にたどり着いたときにはその姿はなかった。
 目前にバーンは広がっていた。だがブーツを履くためには雪のある所までもう少し登らなければならない。汗が吹き出してきたのでフリースを脱ぎ、腰に巻きつけた。ボーイスカウト時代に鍛えたはずの登山も、数年のブランクですっかりただの人になってしまったようだ。せめてもの救いは、数ヶ月前にタバコをやめたていたことであろうか。
 六合目付近まで登るとようやく雪渓の端までたどり着いた。慎重にトラバースして雪渓に近づき、ベースとなる地点を定めた。荷物を下ろし一休みする。伯父がグレープフルーツを取り出し、半分に割った。酸味と苦味が疲れた体に心地よい。伯父は食べ終わるや否や、早速スキーブーツに履き替えた。私も遅れまいとブーツを取り出した。
 「マチガ沢とは違うからね。」 伯父は一言そう言った。
 マチガ沢。谷川岳の奥に存在する雪渓である。そこは自分の足で登る自然のゲレンデである。私に自然の雪渓を滑る楽しさを教えてくれた場所でもある。そこでは気が済むまで何度も登ることができる。登りも10分ほどで終わる。
 でもここはマチガ沢とは違う。日本一の山、富士山だ。登りにはたっぷり時間をかける。おそらく1時間以上は登るだろう。したがって滑るのは一本だけ。貴重な、そして価値ある一本だ。面白い、その贅沢な一本のために我々はこの山を登るのだ。
 
 「マチガ沢とは違う。」 一歩踏み出しただけで思い知らされた。
 マチガ沢に比べて斜度があるため、まっすぐ登ることは難しかった。斜めに登り、ある程度で向きを変えジグザグに登っていく。周りには岩肌が所々露出しているが、上を見るとまったく岩がない無垢なバーンが、存在していた。
 「あそこを滑りたい。」
 目標は定まった。あとはひたすら登ればいい。そうすればたどり着ける。伯父のつけた足跡を一つ一つたどりながら登る。上空は雲一つなく、太陽がまぶしかった。
 ようやく最後の岩肌にたどり着いた。上にはもう岩は出ていない。この広いバーンを滑るために、もっと上に登ろう。途中で伯父が待っているのが見えた。そこで一休みしよう。一歩踏み出そうとした瞬間、体の異変に気がついた。足が重い。そしてのどの気管が狭くなったようなこの感覚。空気の薄さを理解するのに時間はかからなかった。
 伯父のいる所にたどり着いたときには、眼下の雲海は消えていた。遥か彼方に富士吉田市の町並みと河口湖が見えたが、山中湖にはまだうっすらと雲がかかっていた。ポケットからおにぎりを取り出し、その雄大な景色を眺めながらかぶりついた。のどが乾いていたので手元の雪を口に入れた。ここまでで40分ほど。上を見ると頂上が近くに見える。ひょっとすると頂上まで登れるんじゃないか。富士登山なんて以外と簡単なものかもしれない。おごり高ぶったこの若者は、この後厳しい洗礼を受けることとなるのだった。

 伯父は先に出発していた。しばらくして私も重い腰を上げた。一歩一歩雪を踏みしめながら登っていると雪面が固くなっているのに気がついた。中途半端に踏み出すと滑ってしまうのである。酸素不足と疲労のせいで踏み出す一歩がいいかげんになったそのとき、私の体は斜面にたたきつけられた。そして1メートルほど斜面を落ちていった。もがきながら何とか滑落を免れたが、危うく今までの苦労が水の泡になるところであった。このショックは大きく、遠ざかる伯父の姿を必死で追いつつも、恐怖心を感じざるを得なかった。足はますます重くなり、10歩歩いて休憩するような有様だった。七合目の鳥居が下に見えるようになった辺りで、ついに力尽きた。もう一歩も登れない。100メートルほど上にいる伯父も板を下ろしてストレッチをしている。もういい、十分登った。ここから滑っても十分楽しめる。そう自分に言い聞かせて板を降ろした。そして自分は今、いつもやさしく、時には厳しく迎えてくれる八方尾根の頂、唐松岳より高いところまで登っていたのだということに気がついた。
 上を見上げて伯父が滑り出すのを待った。しばらくして伯父が滑り出す。リズミカルに、そしてダイナミックに中程度の孤を描いていく。相変わらず楽しくてしょうがないといわんばかりの滑りだ。雪と戯れるという言葉がぴったりくるほど、自然でなめらかな動きで滑り降りてくる。私の前で止まると、開口一番、
 「気持ちいいね!。」 
 心から出た言葉であろう。満面の笑みを浮かべる伯父の顔を見て、今までの疲れが吹き飛んだような気がした。
 伯父はまた先に滑り出した。下から写真を撮ってくれるらしい。いよいよ私の番である。この瞬間のためにここまで登ってきたのだ。眼下には雄大な景色が広がっている。そして広大な雪面には伯父の残した一本のシュプールのみ。そこにもう一つ私のシュプールを刻み込むのだ。スキーを履く。体が震える。慎重に滑ろうか、それともアクティブに滑ろうか考えがめぐる。楽しもう。せっかくここまできたのだから。技術的なことを考えるよりこの瞬間をどう楽しめるか、それだけを考えよう。どういう滑りをしたか評価するより、どのくらい楽しめて滑れたか評価しよう。そしてどんな滑りをしたにせよ、自分のなし得たことを、最大限評価しよう。
 「行きまーす!。」 声をあげた。

 踏みしめる足が、雪面から返ってくる声を感じていた。体が、重力と語り合うように動いていた。私は今、富士の雪渓を滑っている。富士に育まれた雪たちとともに、富士の偉大な懐に包み込まれている。
 伯父のもとにたどり着いた私は、伯父と同じ言葉を口にしていた。
 「気持ちいいね!。」
 上を見上げると私の描いたシュプールがしっかりと残っていた。伯父と同じ中程度の孤が幾重にも重なっている。
 「今度は小回りで行ってみようかな。」伯父も賛同した。
 リズミカルなターンを繰り返す。伯父の動きと私の動きがシンクロする。そして雪たちも…。
 岩肌が見えている所まで降りてしまった。ここからは岩を踏まないように慎重に滑る。最後まで雪の感触を味わいながらベース地点まで滑り降りた。

 ベースにつくと、雪に埋めていたビールを取り出し、祝杯をあげた。達成感と疲労感が折り重なる体の中に、黄金色の液体がしみ込んでゆく。しばらくは言葉も出ない。そして思った。この神々しい富士の頂を作り出した大地のことを。我々に雪というものを与えてくれた空のことを。そしてこの大自然と一つになれるスキーというすばらしいスポーツを作り出した先人たちのことを…。

 下山をしながら、私は何度も後ろを振り返った。自分の残したシュプールをいとおしむように何度も眼でなぞった。そして富士の頂に、幼いころ亡くした父の姿を重ね合わせていた。
 「またおいで…。」
 そう言って父はにっこりと笑っていた。

 伯父も頂上まで行きたかったようだが、ふもとから我々の道程を確認してみると、伯父の上った地点でも、まだ半分ほどしか登っていなかったことがわかった。登っている途中、頂上はもう目の前のように見えていたのだが、あらためて富士の高さを痛感した。次回はもう少し上まで登ろうと伯父と約束し、夕日に染まった富士を後にした。